こんにちは、ジェニ(@jennie_log)です!
韓国映画「パラサイト」。日本でも大きな話題となりましたよね〜♪
そんな今、ポン・ジュノ監督の作品にハマってる!という人も多いはず。。
そこで、今回は2009年のヒット作・映画『母なる証明』をレビュー。
気になるシーン・内容を考察&解説し、さまざま角度からこの映画が本当に伝えたかったことについて迫ります。
さらに、ポン・ジュノ作品ならではの3つの演出について深掘り。
この記事を読めば、もう一度映画を見返したくなること間違いなしですよ〜!
※この記事は映画のネタバレを含みます!
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Contents
韓国映画『母なる証明』あらすじ&キャスト
知的障害のある息子・トジュン(ウォンビン)を、母親(キム・ヘジャ)は常に心配していた。トジュンには悪友・ジンテ(チン・グ)がおり、トジュンが轢かれかけた議員のベンツに復讐した際、協力したジンテからバックミラーを破損させた責任を転嫁されたことから、母親は彼との絶交をトジュンに勧めるほどであった。
ある日、トジュンはナンパしようとした少女(チョン・ミソン)に逃げられた。その翌日、少女は死体となって発見され、トジュンは殺人容疑で逮捕された。息子が殺人など犯すはずがないと信じる母は、警察や弁護士に追いすがるが、その努力も無駄と知り、自らの手で事件を解決しようと奔走する。
出典:Wikipedia
2009年に韓国で公開された「母なる証明」。
第62回カンヌ国際映画祭の「ある視点部門」で上映、韓国の2大映画祭の一つである青龍映画賞最優秀賞するなど、こちらもポン・ジュノ監督の大ヒット作です。
あらすじだけみると、よくある母と子のヒューマンドラマかと思いますが、予想外だにしない展開を見せるこの作品。
事件の真相を暴いていくサスペンス要素もあり、最後まで目が離せない内容となっています。
主役である母親には、「韓国の母」とも呼ばれているベテラン女優キム・へジャを起用。
知的障害を持つ息子・トジュン役をウォンビンが演じています。
ポン・ジュノ監督はこの映画の母親役をキム・へジャが演じてくれなかったら、この作品を諦めていたとインタビューで言っているほど!

まさに「キム・へジャによるキム・へジャのための作品」なのです。
また、ウォンビンはこの映画が兵役後の復帰作。
韓流ブームの先駆者として、日本ではイケメン俳優のイメージがあるウォンビンですが、この映画では知的障害を持つ青年という難しい役柄を見事に演じ切っています。
韓国映画『母なる証明』気になるシーン&内容を解説!
ここからは『母なる証明』の中で、疑問が残るシーンや内容について、私の憶測も踏まえ解説していきます!
ダンスシーンは何を表現している?

映画のオープニングとエンディングに流れる、母親のダンスシーン。
かなりインパクトがあり、最初から「この映画なんかやばいぞ」感満載です。
オープニングのダンスシーンは1人で孤独に、エンディングは婦人会のおばさんたちと賑やかに。
しかし、流れているBGMは同じで、その対比が印象的です。
この2つダンスシーンは、どちらも「諦め」を表現しているのでないかと思います。
「息子との関係、自分の人生、一体どこから間違ってしまったのか?もう、どうにでもなれ」
といった気持ちを感じました。
ポン・ジュノ監督は、ダンスシーンをオープニングにした理由を「宣戦布告」と語っています。
観客に「この女性がなにかしでかすぞ」ということをアピール。
最後にまたダンスシーンで締めることにより、観客に彼女がしたことを見届けたという達成感を与えています。
奇妙で、どこか切ないこの二つのダンスシーン。
「母なる証明」を語る上で欠かすことのできない名シーンですね。
トジュンは知的障害者ではない?

「トジュンは知的障害者ではなかった説」を唱えている人もちらほらいるのですが、個人的にはトジュンは本当に知的障害者だと思っています。
トジュンの発言にぎょっとする母の姿がよく見られましたが、こういったシーンはトジュンが知的障害者でないことを示す伏線ではなく、
母親が息子のことを実は深く理解できていないということを表しているのではないでしょうか。

「愛する息子が不運にも障害を持ってしまった」と、母自身がトジュンのことを“障害のある息子”としか見れていなかった。
トジュンが最後までなんだかよくわからない人で終わってしまったのは、映画が母親の視点で描かれているからであり、
実は他の人から見た時には、また違う一面があるのかもしれませんね。
本当に“忘却のツボ”ですべて忘れてしまったのか?

太ももにあるという「忘却のツボ」
母親はバスの中で、自らそのツボに鍼を打ちます。
そして、最後のダンスシーンへ入っていくわけですが、本当にすべてを忘れてしまったのでしょうか?
私は、忘れたフリをしていると解釈しています。
そもそも母親が本業ではなく、裏の仕事として鍼をしているところにちょっと疑問が。
隠れてその仕事をしているということは、母親が本当に正しい鍼の知識を持っているかどうか微妙ですよね。
鍼を打って記憶がなくなったというシーンもないので、この忘却のツボに説得力が感じられません。
息子に焦って忘却のツボに鍼を打とうとしたり、
母親が執拗にこのツボにこだわるところからも、ただの思い込みかと。
もし、忘れたフリをして(そしていつかトジュンが真実を思い出すことをわかっていて)バスの中で踊っているなら、さらに切ないシーンですね。
これぞポン・ジュノ作品!『母なる証明』で印象的な3つの演出
ストーリーだけでなく、この映画には常に独特な雰囲気が漂っていますよね。
実は、「母なる証明」には3つの演出にポイントを置いて作られています。
時にはその演出が重要な伏線にもなっており、物語の鍵を握っているということも…
印象的なその3つの演出について詳しくみてみましょう!
①「液体」の演出

ジンテの家に忍び込んだ母親が、バレないようにこっそり脱出するシーンはかなり印象的なシーンですよね。
ペットボトルを倒してしまい、じんわりこぼれ広がる水がジンテの指に触れそうになる…
普通なら物音を立ててしまって相手が起きないかヒヤヒヤするパターンになりがちですが、「水」で演出するのは、さすがの発想だなと思いました。
このほかにも、この映画の中には「液体」が巧みに使われています。
土砂降りの中、廃品回収の老人から傘を買うシーンや、老人がいる小屋に向かう途中でぬけるみに足を滑らせるシーンなど、
これらの「液体」は、映画全体に漂うじめじめとした暗い雰囲気をうまく演出しています。
また、「液体」と対照的に「ドライ」なものも作中によく登場しています。
最初のダンスシーンにでてくるススキ畑や、乾燥した漢方薬など、生気のないものが母親の生活にはありました。
このドライなものたちは、母親の寂しさや生活の貧しさを表していて、主に映画の前半に出てきます。

彼女の日常の質素さや、活気のなさを表現する要素となっているようですね。
トジュンの逮捕から釈放までの「液体」の演出と、事件前・事件後の「ドライ」さの対比にこだわりを感じました。
②「赤」の演出
トジュンの母親は、どこにでもいる韓国のおばちゃん….のはずですが、なんとなく変わっているというか、おかしいなって感じる要素に「赤」の演出があります。
母親の服はほとんどが赤色。

暗い映画の中で、母親がなぜか「赤」の洋服を着続けているのは異様です。
反対にトジュンはほとんどのシーンで「青」の洋服を着ていて、こちらも対比を意識した演出のようです。

そして物語にはさまざまな「赤」が散りばめられています。
トジュンがくわえさせられたリンゴ、
バイキングでさらに盛られた二つのミニトマト、
ゴルフクラブについた口紅、
カラオケバーのソファー、
アジョンの鼻血、
老人を殺すために手に取ったスパナ
などなど。
よく見ると後半になるにつれ母親は「赤」の洋服を着なくなり、その代わりに物語の重要なシーンで「赤」が登場するようになります。
映画の中の不自然な「赤」が不気味さを引き立て、そして伏線になっているなんて…
ポン・ジュノ監督の演出は奥が深いですよね。
③「性」の演出
母と息子の物語なのに、この映画にはやたら「性」に関する演出が多いです。
母親が主人公の映画で、セクシュアルな場面やワードが出てくるのはどこか違和感というか、ちぐはぐな印象があったのですが、
ポン・ジュノ監督は「母親とセックス、二つのイメージの衝突が必要だった」と語っており、あえて「性」にフォーカスした演出をしていたようです。(ポン・ジュノ監督「ネタバレ? 今は話すことができる」より)
ジンテとミナの行為シーンが結構インパクトありますが、
被害者のアジョンが売春をしていたという真実も、やはり物語の大きなポイントとして「性」を置いているからこそなんでしょう。

トジュンが「母親と寝た」と言うところや、親子で一緒に眠るシーンも意味深に描かれており、母親と息子の間にはなにか「性」に関する秘密があるのかな?と思ったほど。
しかし、実際はごく普通の親子。
トジュンがアジョンを殺してしまった理由にも、「性」はまったく関係がありませんでした。
おそらくこの演出は、さらに「母親」という印象を強めるために行ったのではないかと、私は考察しています。
また、二つのイメージの衝突は映画の内容を複雑にする要素でもあります。
作中には結構伏線があるのですが、「母親」と「性」の違和感に気を取られて案外見落としてしまってるんですよね。
巧妙なダミーとしての役目を担っているのが、なんとも面白いですね。
韓国映画『母なる証明』のテーマは「母の無償の愛」?

この映画が題材とするのはやはり「母親」。
ポン・ジュノ監督が、「母親を主人公とした映画を作りたい」と考えてこの作品を生み出したということだけあり、物語も「母親」中心に進んでいきます。
実は、キム・へジャの役に役名はありません。
作中で名前は一切出てこず、「トジュンの母」としか呼ばれていないのです。
そして彼女は、「母親」という役割だけをまっとうします。
母親として、息子を心配し
母親として、息子の無実を信じ
母親として、真実を突き詰めようとし
母親として、ついには殺人を犯します。
すべての出来事の源にあるのは「母の無償の愛」。
そして、その「母の無償の愛」こそが彼女をおかしな方向へ進ませていきます。

この映画では、なにかと美化されがちな「母の無償の愛」や「母性」について、疑問の声を上げているのではないかと私は考えています。
「母」としてでなく、1人の人間として、1人の女性として生きていけたら、主人公はきっと違う行動をとっていたはず。
主人公に名前があり、「母親」として以外の立場があれば、こんなに歪んだ愛情は生まれなかったでしょう。
母親が廃品回収の老人を撲殺し、我に返って、慌てて血を老人に戻そうとするシーン
「どうしたらいいの、お母さん」
と、突然お母さんについて口にします。
この言葉から彼女は、「トジュンの母親」だけでなく誰かの娘でもあったことを思い出させます。
このセリフにゾクッとした人も多いはずですが、
その怖さの本当の正体は、私たちも気づかぬうちに彼女を「1人の人間」として見ることを忘れ「トジュンの母親」としか見れていなかったことを、自覚させられるからではないでしょうか。
映画が公開されたのは2009年。
今でこそ、フェミニズムで大きく盛り上がる(そして荒れる)韓国ですが、この時はまだまだ「女性は母親になってこそ幸せ」「女性は子育てして家庭を守る」というのが当たり前だったはずです。
主人公は、本当に「息子を溺愛する狂った母親」だったのでしょうか。
「母としてのあり方」を問うようで、そもそも「母親として生きる」ってなんだ?というところにフォーカスを当てている物語であるといえます。

まとめ
いかがでしたでしょうか?
個人的には『パラサイト』は分かりやすくインパクトのある映画、
『母なる証明』は深読みすればするほど味が出る、ある意味遠回しな映画だなと感じました。
万人ウケは難しいかもしれませんが、その分見終わった後いろんな感情に浸れる作品。
ポン・ジュノ監督が作り出す世界観に飲み込まれましたね。
是非、また他の作品もレビューしていきますね〜♪
ではっ!


